鴻巣市民活動センターに展示されている「鴻巣御殿模型」を囲んで説明。文禄2年(1593)、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられた。秀忠、家光の三代にわたって利用された。
中山道に面した「鴻神社」。明治6年に氷川社、熊野社、雷電社の三社を合祀して「鴻三社」と号し、村社となる。更に明治35年~40年にかけて東照宮ほか無資格社を合祀して「鴻神社」と改めた。
本殿前で1班の皆さん。「鴻巣」の地名については3つの説があるが、その1つに「こうのとり伝説」がある。コウノトリが大木に巣をつくり卵を産んだところ、樹の神の大蛇が卵を呑もうとしたので、コウノトリがくちばしで大蛇を突き殺した。
「法要寺」山門前で1班の皆さん。法要寺は真言宗深井寿命院の末寺。屋根瓦には加賀前田家と同じ梅鉢紋が入っている。
2班の皆さん。梅鉢紋は、慶安(1648~1652)の頃、加賀前田候が参勤交代の帰路、宿所として法要寺を利用した際に許されたもの。
「深井景周」の碑。三河国の生まれ、江戸で柔術を学び奥義を得、鎖鎌の術もよくした。深井家に入婿し深井勘右衛門を継いだ。邸内に道場を作り多数の門弟を指導した。
彰義隊関弥太郎の墓。明治維新の際、彰義隊士として上野の山で戦った徳川直参の旗本。敗戦後は榎本武揚らと五稜郭で抗戦した。明治9年頃より鴻巣に居住し、名も岡安喜兵次と改め、長唄の師匠をしていた。
法要寺鐘楼前に植樹された「兼六園のヤマモミジ」。前田家との縁で、石川郷土史学会から寄贈された。なお、鐘楼が石川県洲珠市のケヤキで建てられた縁で、珠洲市から「キリシマツツジ」も寄贈された。
中山道鴻巣宿「本陣跡」(写真の右側)の説明、向かい側に荷物の積み替え等を行った「問屋場」、その右に「高札場」があった。
浄土宗「勝願寺」の惣門前で、2班の皆さん。明治15年の大火で鴻巣宿の街並みの大半は消失したが、この惣門のみ焼け残った。下部の焦げた部分は切断したとのこと。