「妙楽寺」、応永年間(1394 ~1428)に山内上杉安房守憲方公の菩提を弔うために、鎌倉建長寺塔頭明月院惠範が開山(臨済宗)。延命地蔵尊を本尊とする。天正年間に真言宗常勝寺の末寺となった。
原馬室「雷電社」、明治政府が作成した「神社明細帳」に、「境内は官有地で、信徒50人」と記載され、原馬室「愛宕神社」に合祀すべしとされたが、明細帳の記載は間違いであるとの訴えをし、明治40年に認められて、合祀を免れた。
古墳時代後期の「馬室埴輪窯跡」。荒川を望む崖の斜面に、10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人の集落も確認されている。昭和9年に、埼玉県指定史跡に認定された。
原馬室の鎮守「愛宕神社」。長治2年(1105)の創立と伝えられている。正慶2年(1333)に新田義貞が挙兵した際には、家臣の世良田利長が社頭に利剣を収めて戦勝を祈願した。
「渋沢栄一の書」が、愛宕神社の集会所(現在は保育園として使用)壁面に掛けられていたが、いつ・誰がここに掛けたかは不明。『共同一致 已巳元旦 九十翁青渕書』と書かれている。昭和4年元旦、九十歳の時の書である。
小松の「大日堂」は、広大な墓地である。入って左奥に、江戸時代の石仏が数体残っている。新編武蔵風土記稿には「大日堂」の名はなく、明治3年の寺社分離統合の際に廃寺となった『受法院』がこの地にあり、その大日堂であると推測した。
旧小松原村の村社「小松原神社」。この地内には上・中・下の3つの組があり、上に愛宕神社、中に稲荷社・下に別の稲荷社があったが、明治2年に新政府の達しに従い、中組の稲荷神社に他の2社を合祀し、小松原神社と改称した。
山伏寺「小松山 瀧本院」跡。真言系の修験である当山派では、小松原に所在した瀧本院が触頭として16ケ寺を擁し、大きな勢力を持っていた。しかし、明治政府により修験道は禁止され、廃寺となった。個人宅に多くの書状と庭先に「慧慶翁壽碑」が残るのみである。
「原馬室の一里塚」(西側)。この一里塚は、江戸時代初期の中山道に築かれたものでその後、道の付替えによってそのまま残された。東塚は明治15年(1882)に高崎線の線路施設により大部分が取払われ、昭和5年完成の複線化で消滅し、西塚のみ残った。埼玉県指定史跡。
約7kmの道を歩き、フルコースの最終史跡「馬室の一里塚」にたどり着いた2班の皆さん。お疲れさまでした。後10分でゴールの北本駅西口に到着する。 ●参加者15人の印象に残った施設=1位:笛の実演があった観音堂、2位:常勝寺と瀧本院が同数